深夜MIKAのカフェタイトル

1998.07.14(火)
今日は7月14日革命記念日でフランスは祝日だ。私にとって3回目のフランスの夏。今年も本当に涼しくて(寒くて)、夏らしい日々をまだ感じていない。ところでここ数日は革命記念日よりももっと賑やかなお祭りがあった。

おとといの12日(日)は私が知っているフランス生活の中で最も賑やかな(うるさい)、そして長い一日だったと思う。私の住んでいる界隈は割合に静かな住宅地だが、それでも一晩中、いや試合の始まる前から、国旗を振りかざし、顔に国旗のマークを描き、クラクションを鳴らしながら凱旋?する車の多いこと、多いこと。シャンゼリゼは完全にサポーターに埋め尽くされ、コンコルド広場も市役所前のグレーブ広場も完全に隙間のないほどに人で埋め尽くされていた。こんな状況は初めて見た。もともとお祭り好きなこの人たち、何かあればこうやって集まっては騒音を出すけれど、今回は特別。ジダン選手の決めた2つのヘディングシュートも格好よかったので私も、思わずテレビの前で叫んでいた。ちなみにゴールの事、フランス語でビュット。大会中フランスの試合になると、このアパート中のフランス人が同時に反応を示すので、おもしろかった。まずはテレビと一緒に国歌斉唱に始まり「アレ〜〜(いけ〜〜〜)」「ビュット、ビュット!」「オララ〜〜〜(あ〜あ〜)」などなど。昨日のシャンゼリゼ優勝凱旋パレードもすごかった。どこからこんなに人が集まるのか?日本でもこの映像見られたかな?だけど優勝の日の夜中、この人だらけのシャンゼリゼに精神異常の女性が車で乗り込み、人々をなぎ倒して行ったニュースは日本ではやっただろうか?80人が怪我、11人が重傷。こういう人が必ずいるのもフランスだけど、こういう事件があっても翌日には何もなかったように人が集まって、優勝を祝う凱旋がえんえんと行なわれるのもフランスらしい。
11日の午後からは私のツール・ド・フランスも始まっている。私にはもちろんこっちの方が大切な夏のイベント!今もテレビで観戦しているところだ。

ともかく昨年の9月30日にクリスティーズ・エデュカシオン(私の通っていた学校)が、始まってからというもの、本当にあああ・・・っという間の日々であった。定期的に長期休暇があるとはいうものの、毎日は学校の授業と午後の見学、そしてレジュメを読みながらの復習、これが日課だった。それに加えて、定期的に行なわれる試験の準備、レポート提出、クラス内での発表。それに加えて3学期(最終学期)は、短いけれども論文の提出もあり、ただでさえ息切れ状態でついていってた私にとっては、かなりきつい時期だった。そもそも私はフランス人と同じクラスの一員として出発し、別に用意されている外国人クラスの人たちが受けているフランス語の授業も、補習授業も、採点における特別考慮もなし。最初はこの状況がつらくて、補習を他の外国人と受けることも考えたけど、やっぱり私にも意地があって、私は私なりにこのクラスでやり通したかった。けっこう孤独な1年間だったが、6月29日の最終試験まで、とにかくやりぬいたつもり。この学校では結局あまり友達は出来なかったけど、学校の外ではそれなりに友人に恵まれていたほうだと思うし、何よりも昨年の今頃、オルセー美術館主催のヴィジット(見学会)で出会ったキャロリーヌの存在が今ではとても大きい。彼女の応援がなければ、私の論文は仕上がってなかったかもしれない。彼女はいつも優しい目で私の勉強の様子を見守り応援してくれた。いつもはお姉さんみたいに、ときどきは先生みたいに・・・。今度、彼女の両親のバカンス用宅へ一緒に行くことになっている。

ともかく目まぐるしい日々だったけど、計画的に定期的に旅にもよく出た。私のフランス生活ももうすぐ終わるのかも知れないと思うと(9月の修士編入の試験結果によっては帰国をします)、休みの日、時間が許すかぎり、フランスの街を見ておきたかった。これらの旅は私なりのツール・ド・フランスなのだ。一応、プログラムは順調に消化していて、あとボルドー周辺とトゥールーズ辺りを回ると一応私の地図は完成を見る。もちろんチャンスがあれば出来るかぎりの街を訪れてみたいけど・・・。
私の旅のスタイルもほぼ確立されてきた。列車のチケットは必ず半額になる1ヵ月以上前に手配、ホテルは必ず週末などの割引やその他の割引を利用。朝食は前日にスーパーで調達・・・などなど。とにかくたくさん旅したいので、節約には心がけてきた。その結果11月には学校からの研修旅行ロワールの城めぐり、2月には毎度お馴染みのロンドン、3月には東のアールヌーヴォーの街ナンシー、4月にはブルターニュ地方、大好きなプロヴァンス地方へ再び、7月に入ってからフランスのおへそクレルモン・フェラン、と憧れのバルセロナへ(アール・ヌーヴォー巡礼の旅、パリ、ブリュッセル、グラスゴー、ダルムシュタット、ウィーンが終わった今、こことプラハが残っていた)・・・と行ってきた。バルセロナはともかく(フランスではないが)印象的な街で、またゆっくりと時間をかけて訪ねてみたい。近代的であり、中世の輝ける歴史も、私のテーマであるアール・ヌーヴォー(スペインではモデルニスモという)の建築も豊かな海辺の街。太陽の少ないパリから行ったので、太陽はとてもまぶしく、普段は不快な湿気を含んだ暑さもこの時ばかりは気持ち良かった。

しかしこの数ヶ月の間で、何よりも嬉しかった記念すべき経験は、私の卒業論文(この間仕上げた)のテーマにもなったフランス人建築家エクトール・ギマールの「カステル・ベランジェ」という建築の内部を見学する機会を自ら手に入れたこと。この建築はともかくフランスのアール・ヌーヴォーを語るのには欠かせない建築で、私の最も好きな彼の作品でもある。
これはずいぶん前から住む人が少なくなっていたけど、それでも普通の人が住んでいる住宅なので、関係者以外はもちろん立ち入ることはできない。私が旅行で来ていた頃から、ここには何度も何度も足を運んできた。今回の論文を書くにあたって、論文に使う写真を改めて取って歩いていた6月9日のこと。この「カステル・ベランジェ」の敷地内を歩く二人の男性を発見!今までこんなことは一度もなかった。私はオリの中の動物みたいに、この敷地を取り囲む柵にへばりついて二人の様子を観察していた。その内の一人は私のように一眼レフのカメラを持っていて、もう一人はどうやらその人を案内しているようであった。「あああ・・・」その時、私は声にならない声で叫んでいたのだと思う。間もなくカメラを持った人は、表通りに面した共同主玄関から出て行くのが見えたので、もう一人はその近くにいるはずだと、私にしては迅速に判断。そちらの方に走っていくと、おじさんはこの主玄関の奥にあるガラス扉の奥から私を発見してくれた。私がガラス越しに見えるおじさんに目で懸命に語りかけていると、おじさんは扉をあけてこちらに歩み寄って来てくれた。しかし私たちの間にはまだ主玄関の鉄柵扉がある。私は「こんにちは。ここに住んでいる方ですか?」ととびきりの笑顔で質問した。実際のところはこの中に入れるかもしれない・・・と期待で心臓はバクバクしていたのだが・・・。
おじさんはここで働いている人で、私は一生懸命私の希望を伝えた。私はパリで美術史の勉強をしている学生で、今この建築に関して論文を書いている。この建物には何年来も通っているが、一度も中に入るチャンスがなかった。お邪魔でなければ少し敷地内を見せていただけないか?・・・するとおじさんは優しい笑顔でこのオリをあけてくれた。その上、思ってもみなかったのだが、建物の中まで見せてくれたのだ。長年の開かずの扉は、とうとう私に開かれたのだ!!!
現在、この建物はたいそう痛んでいて、36あるアパートの内、90才前後の二人のお年寄りが住んでいるだけで、あとは空室。数ヵ月前から改装工事が始まっていたのは知っていたが、今日はこの工事もちょっとお休み。このおじさんは電気関係の技術者で、工事がお休みではあるが、現場を管理しているそうだ。普段は猛犬のような管理人がいて、決して私たちのような人間を中には入れてくれない。が、彼は1週間の予定で留守にしていて、おじさんも私を中に入れてくれたわけだ。まったくついていた。おじさんは大まかにすべての建物の内部を(工事現場と言った方が正確か?)見せてくれた。しかしおじさんもちょうど仕事を終える時間だったのと、私もフィルムをほとんど残してなかったのと、そういう事情もあって、私は「もう一度改めて見せてください」と図々しいお願いをしてしまった。しかしおじさんは笑顔でその願いを受け入れてくれた。「そうだね。明日ならもっと時間があるから、もっと隅々まで見せてあげられる。ぼくは郊外に住んでいるから、もう今日は発たないと・・・」「じゃあ、とりあえず明日の14時にここで」「いいですよ」
色んなラッキーが重なって、私は翌日たくさんのフィルムを持って、そして同じくギマールファンの友人キャロリーヌを誘って、14時になる数分前にそこを訪れた。しかしおじさんがいかに親切そうでも私にも一抹の不安があったのだ。「いいかげんに返事していたら、どうしよう・・・、キャロリーヌにも仕事を休ませてしまったし・・・、おじさん本当に覚えてくれてるかな・・・」しかし、おじさんは14時ぴったりに現れた。「おじさん、疑ってごめんなさい」心の中で、そうつぶやきながら笑顔でがっちり握手。色んなお話をしながら一部屋一部屋丹念に見て回る。
100年前、1898年に完成したこの建物は、建築家の意志でトータルコーディネイトされていた。しかしそれぞれのアパートを所有していた家族の好みに少しずつ手を加えられてていて、オリジナルの状態からは程遠く、長年住み手をもたない空間は荒廃して、黴臭く、差し込む光もなんとなく物悲しかった。でも内部から視点をかえて空間を眺められるこの幸せをどうやったら伝えられるだろう。一階ずつ階を登っていく、最上階のテラスに出てみる。今まで本の写真でしか見られなかった建物のディテール(詳細部)を手に取るように間近に見ることが出来た感動をどうやったら伝えられるだろう・・・。きっと誰にもわかってもらえないだろうけど、みんなそういうモノは持っているはず。私はキャロリーヌにもこの感動を味わってもらえて、私のこの感動を少しでもわかってくれる人がいてよかったと思う。お婆さんが住んでいる住居以外はほとんど見たはずだ。ほとんどすべての室、カーヴ(地下の物置場)から最上階の女中部屋まで、有名な画家の最上階のアトリエも・・・とにかく何もかもだ。剥がれた壁紙の下から、建築家のデザインした壁紙がのぞいていたり、オリジナルのものもなくはない。窓の把手、ステンドグラス、コルニッシュ(壁に凹をつけたもの)風の棚、暖炉、床のモザイクなどなど・・・。
さっきも書いたように現在ここは高級アパルトマンに改装中である。1年半後の完成にむけて45のアパートは驚くべきことにすでに完売されている。これは歴史的建造物に指定されているので、できるかぎりオリジナルの状態を復元した上で、最新の快適さ(例えば中央暖房、床暖、サニタリーやキッチン設備の充実)をも合わせ持った高級アパルトマンに生まれ変わるのだ。少し淋しい気もするけど、それも仕方ない。もっとも興味がある、この建築家がアトリエとして使っていた、もっとも派手な装飾を持つ室は、現在使われているので、見られなかった。ここの90才のお婆さんが亡くなったら、パリ市に遺贈されるそうで、この建築家のミニ資料館として整えられるそうだ。少しは私の感動、伝わったかな???

ところで今夜は例年行なわれる花火大会があるはずだった。私はいつものように近所の橋まで見に行ったが、うんともすんともいわない(あがらない)。どうやら今年は例外的にエッフェル塔のふもとで行なわれていたテクノ無料コンサートに力が入っていたようで、コンサート中に時々シケタ花火があがっただけだった。今夜もとても寒くて橋の上で長い間、冷たい風に当たっていたので、風邪をひいたよ。まったく。きっとこのコンサート日本で放映されたんだろうな。だって小室哲哉がメンバーに入っていたからね。


■1998.07.25(土)
今年のツール・ド・フランスは本当に最悪です。私はそのころバルセロナにいたので、そのニュースを知らなかったのだが、今年のツールの出発点であるアイルランドのダブリンに向かおうとしていた、私のひいきのチーム「フェスティナ」チームの車の一つがベルギー・フランス国境の税関でひっかかったことに端を発する。車を運転していたチーム世話係が、フランス国内で使用が認められてない薬品を大量に所持していたために逮捕され、何やら不穏な雰囲気で今年のツールは始まった・・・。
もちろんチームにドーピングの疑いがかけられていたことは言うまでもない。大会が始まっても話題はこれにつき、インタビューの度にチームの監督も、スタッフも、選手も無実をうったえていた。しかし数日後には監督と専属医師の逮捕に発展。そしてとうとう8日目には「フェスティナ」チーム全体が出場停止処分を受け、スター選手ヴィランクの涙の会見となったわけだ。その後も毎日、ニュースや新聞のトップを賑わしている。毎日、状況に進展があって、監督や専属医師の自白、選手らの事情聴取から、事実が明るみになっていくにつれて、私のツールや、選手への気持ちが踏み躙られるような、そしてさらに言えば、事件の背景にはやはり憎むべき「システム」がここにもあるのだと、苦々しい気持ちにさせられる。今やフランス中を揺るがす一大スキャンダルになってしまった。
このフェスティナ事件に触発されて3月にオランダのチーム「TVM」が同じ薬品を運搬中、車を運転していた世話係が同じように逮捕されていたことが、今注目されていて、このチームも「フェスティナ」と同じ経過を現在たどっているので、出場停止処分もあるえる。
この事件に関する報道の行きすぎ、メディアの執拗な取材、普段の検査に加えさらに課されるドーピング検査(血液検査)などで、ともかくギスギスした雰囲気が消えなかった。こんな状況にとうとう選手たちもうんざり。昨日大会13日目にツール大会史上(自転車競技史上)初めての選手のグレーブ(ストライキ)が行なわれた。ツールは毎日出発する場所に選手が集まって定められた時間に一斉にスタートするのだが、これはいわゆるスタート。そこから数キロ走った所から記録に関する本当にレースが始まる。これはデパール・レエルと呼ばれているのだが、そこへ着いたとき、選手はスピードを緩め、自転車から降り、地面に座り込んでしまった。デパール・レエルまで選手を先導する車に大会理事のジャン・マリー・ブランが乗っているのだが、この異常事態に彼が車から降り、選手の代表と話し合う光景が見られた。ともかく2時間遅れで、レースは再スタート。とりあえず大会組織と自転車競技の国際組織の代表と各参加チームの監督、選手の代表による会議を翌朝、行なうことを前提にこの日は一種の解決を見た。
今朝の会議でとりあえず取り決められたことは、今年のツールは中止すべきだという声も多かったが、とりあえず最後まで続行すること、選手へのインタビューは競技にかんすることのみに限定すること(ドーピングやこの事件に関する質問はダメ!)、ドーピング検査は疲労もともなうので、普段以上には課さないこと・・・などが取り決められた。選手の代表は「まだまだ話し合うことはたくさんあるが・・・」と、言いつつも笑顔でさわやかに、今朝のレースは出発した。昨日までの暗い重い雰囲気は晴れたような気がする。
今日から98年のツールは再スタートだ。それでも今年はすでにたくさんの大物選手がリタイヤしているし、やはり「フェスティナ」のメンバーがいないので、活気にかけるのは確か。しかしそれに代わって今まで脚光を浴びることのなかった選手にはチャンスの年だ。大会の賞金は変わるわけではないしね。日本ではこの欧州で盛んな自転車競技(ロード)はあまり知られてないが、彼らの稼ぐ収入もかなりのものだ。例えばヴィランク選手は月収だけで1500万だ。その上大会で稼ぐ賞金もある。このツールは期間だけでなく、配される賞金も凄いのだ。毎日の結果にも賞金はでるが、最終的にマイヨ・ジョーヌを取る(1位になるということ)と約4億円の賞金なのだ。ね?すごいでしょ?自転車競技界の意志に反して、警察がいったん目をつけてしまった自転車界の薬の流れ。これはツールだけの問題ではなく一ファンとしては成り行きを心配せずにはいられない。

 


7月 田舎村の夕暮れ


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